健康のシグナルが身近な時代に
近年、メタボ健診やがん検診に加え、ウェアラブルデバイスが普及するなど、自らの健康のシグナルがより簡単に得られるようになりました。健康状態の把握を通じて生活習慣が改善し、病気が予防され、更には医療費の削減されるのではないか、と期待されますが、実際にそのような効果はあるのでしょうか。
筆者らは、健康のシグナルが予防医療につながり、健康を改善するのか、また、その費用は効果に見合ったものか、健康診断の血糖値のデータを用いて分析しました。
研究結果が Journal of Public Economics(公共経済学のトップジャーナル)に掲載されましたので概要をご紹介します。(共著者:西山克彦: University of North Carolina at Chapel Hill、Brian K Chen: University of South Carolina、Karen Eggleston: Stanford University)
論文はこちら。どなたでもダウンロードできます!https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0047272721000049
結果を先にまとめると、
- 健康診断で血糖値が糖尿病の診断基準値(「糖尿病予備軍」及び「糖尿病タイプ」)を超えると、糖尿病に関連した医療サービスの利用が増加する。(ただしその増加率は、5%ポイント程度と低い値にとどまる)。
- しかし、健康診断の受診者全体に対しては、医療サービスの利用増にもかかわらず、翌年の血糖値の低下は見られない。
- 一方で、ハイリスクの人々については、「糖尿病タイプ」の基準値を越えた場合、翌年の血糖値の低下がみられる。
- 3.の場合、血糖値の低下がもたらす死亡リスク減少の便益は、基準値越えに伴い発生する予防的医療費の増加と概ね同等と考えられる。
従って、
- 費用と効果の観点から基準値を適切に設定し、ハイリスクの人に重点的に予防医療を行うことが重要。
- これらハイリスクの人に予防医療の受診を促す方策の検討が必要。
糖尿病の診断基準値は二つ
糖尿病は、血糖値が高い状態が続く慢性疾患です。当初は自覚症状が少ないですが、長期的には、目、心臓、腎臓、神経、足、などの重大な合併症につながります。日本においても大きな健康問題です。早期に危険因子を減らすことで予防可能とされます。
糖尿病の診断方法の一つに空腹時の血糖値があります。診断基準値は二つあります。
- 「糖尿病予備軍(境界領域)」:空腹時の血糖値≧110 mg/dl
- 「糖尿病タイプ」:空腹時の血糖値≧126 mg/dl
空腹時血糖値は通常の健康診断のチェック項目に含まれており、そのデータを用いて分析を行います。
「ギリギリ上回った人」と、「ギリギリ下回った人」を比較
分析では、健康診断時の血糖値が基準値を「ギリギリ上回った人」と、「ギリギリ下回った人」を比較します。近年経済学等で多く用いられる、回帰不連続デザイン(Regression Discontinuity Design)という手法です。血糖値が基準値を上回ると、基準値を超えたという通知が来たり、その後医療機関を訪問したりする確率が増えます。一方で、基準値のギリギリ上とギリギリ下の人々では、健康状態やその他の要因には大きな違いはない(より正確には、連続的に推移している)と考えてよいでしょう。これらから、もし健康診断後に、基準値を下回った人々と比べて上回った人々の医療の利用が増えたり、血糖値が下がったりすれば、血糖値が基準値を超えたことの影響と解釈できます。
血糖値の操作があると問題
この分析手法がうまく使えないのは、個人が健康診断の検査値を基準値のギリギリ上や下に操作できるような場合です。そのような場合、基準値の前後に、データ上は観察されないが異なるタイプの人々が集まっている可能性があり、先ほどお話しした前提(基準値の前後で健康状態やその他の要因は連続的に推移している)に反してしまいます。
このような問題は、基準値の前後でデータの観察数に偏りがあるかどうかで確認するのが一般的です。操作がなければ、基準値前後でデータ数はなめらかに推移するが、操作があれば、基準値前後に大きなジャンプがあるだろう、という考え方です。
図1は、横軸に血糖値、縦軸に各血糖値の人々の割合(密度)を示したものです。赤の縦線2本は、先ほどお話しした糖尿病の診断基準値です。基準値の前後で、該当する人の割合は滑らかに推移しており、血糖値の操作の問題はなさそうです。
レセプトデータと健診データを突合
分析では、レセプト(診療報酬の明細)データと健康診断のデータを突合したデータを用いています。個人レベルのデータですが、個人を特定する情報はありません(データは(株)JMDCより取得)。レセプトデータから、糖尿病関連で医療機関を訪問したかどうかや、かかった医療費がわかります。健診データから血糖値や血圧などのデータが得られます。分析では、健康診断時に、それまで糖尿病と診断されていない人々を対象としています。それらの人々が、健康診断で糖尿病の診断基準値を超えた場合に、その後の医療機関の利用や健康状態に影響があるかを見るわけです。
基準値を超えると医療の利用が増加
まず、糖尿病の診断基準値を超えると、医療サービスの利用が増えるかどうかを検証しました。図2は、ある年の健康診断時の空腹時血糖値(FBS:Fasting Blood Sugar)を横軸に、健診後1年間の糖尿病関連の医療サービスの利用量を縦軸に示しています。赤の縦線は「糖尿病予備軍」の診断基準値(110 mg/dl)です。110mg/dlの前後各5mg/dlの範囲に約20万人分のデータがあるため、データのばらつきが小さくなっています。
図から、健康診断時の血糖値が「糖尿病予備軍(110 mg/dl)」の基準値を超えると、その後1年間の医療サービスの利用量が非連続的にジャンプすることが見て取れます。例えば左上の図は、健診後1年間に少なくとも一度糖尿病関連で医療機関を訪問した人の割合を示していますが、健診時の血糖値が109 mg/dlの場合は約10%が医師を訪問するのに比べて、110 mg/dlの場合は約15%となり、5%ポイント増加しています。人々は「糖尿病予備軍」という健診シグナルを受けて、医療サービスの利用を増やすわけです。
一方で、健康の改善は見られない
続いて図3は、翌年の健康指標に同様の変化があるかを見たものです。横軸は先ほどと同じくある年の空腹時血糖値、縦軸は翌年の健康診断時の健康指標の平均値を示しています。
図3では、図2とは対照的に、110 mg/dlの基準値を超えても翌年の健康指標にジャンプは見られません。健康指標の値は110mg/dlの前後でほぼ一直線で、連続的に推移しているのがわかります。
つまり、「糖尿病予備軍」という健診基準値をギリギリ上回ると、その後1年間の医療サービスの利用が増えるものの、翌年の血糖値には顕著な影響を及ぼさないと言えます。
これらの結果は、より重症度の高い「糖尿病タイプ」の基準値(126 mg/dl)においても同様でした。
ハイリスクの人々に限ると、翌年の血糖値が改善
ここまで、健康診断の受診者全体に対しては、基準値を越えると医療の利用が増えるものの、翌年の健康指標には改善が見られない、という結果でした。
しかし、リスクの高い人々については、「基準値越え」というシグナルを受けて健康が改善するかもしれません。図4は、この可能性を検討したものです。血糖値が「糖尿病タイプ」近辺であることに加えて、血圧とコレステロール値が高い人々を「ハイリスク」と見なします。これらの人々について、血糖値が「糖尿病タイプ」の基準値(126 mg/dl)をギリギリ越えた場合、翌年の健康指標にどのような影響があるかを示しています。*1
興味深いことに、図4左上図から、健康診断における血糖値が基準値(126 mg/dl)をわずかに超えると、翌年の血糖値を示すラインが下方にシフトしているのがわかります。更に、HbA1c(糖尿病の診断に用いられる代替指標、右上図)についても、同様のトレンドラインの下方シフトが見られます。これらの結果は、より厳密な推計モデルにおいても観察されます*2。これらから、ハイリスクの人々に対しては、健康診断における血糖値がギリギリ「糖尿病タイプ」の基準値を超えると、翌年の血糖値が改善すると考えられます。
予防医療の費用と効果は見合うか?
では、ハイリスクの人々について観察された血糖値の改善効果は、健康診断によって追加的に発生する予防医療の費用に見合っているのでしょうか。以下の3ステップで分析しました。
1.死亡リスクの変化を計算
まず、基準値越えによる血糖値の低下がどの程度死亡リスクを低下させるか、リスクエンジン(リスク予測モデル)を用いて推定します。リスクエンジンとは、血糖値や血圧、コレステロール値等の健康指標やその他のリスク因子(年齢、性別など)を入力すると、糖尿病による死亡や合併症発症の確率を計算してくれる予測モデルです。論文では、Quan et al. (2019)のモデルを使い、*3基準値をギリギリ下回る平均的な人々について、図4に示されるHbA1c値の減少が、5年以内の死亡リスクをどの程度低下させるか計算しました。
2.リスク減少の便益を計算
次に、死亡リスクの低下がどの程度の便益に相当するか、「統計的生命価値」(個人が死亡リスクを減らすために支払ってもよいと思う金額)の仮定のもと計算します。当然ながら、「統計的生命価値」をどのように設定するか、また、そもそも設定できるのか、については様々な意見があり、正解はありません。医療経済学の分析では、一人当たりの国民総生産の値や、その数倍の値を用いた議論が多く行われます。今回の分析でも、文献でよく用いられる一人年間5万ドル/ 10万ドル/ 20万ドルの値をあてはめて計算しました。
3.予防的医療費の増加と比較
最後に、2. で計算した便益を、健診で基準値を超えたことで追加的に発生する予防的医療費の増額と比較します。後者の値は、図2右下図と同様の分析から得られます。*4
これらの追加的な医療費と便益を比較したところ、健診を契機とした予防的医療費の増加と、死亡リスクの減少の便益が同程度であると推計されました。
つまり、ハイリスクの人々について、健康診断をきっかけとした予防的医療費はその便益に見合っていると考えられます。
分析からの示唆
これらの分析から以下の示唆が得られました。
- 健康診断のシグナルは医師への訪問を促し、予防医療を促進する可能性がある。一方で、不適切な基準値が設定された場合、効果の低い医療の利用につながり得る。従って、ハイリスクの人など、費用と効果の観点から適切な基準値を設定し、重点的に予防医療を行うことが重要。
- また現状では、リスクの高い人々であっても、基準値を超えて予防的な医療のために医療機関を訪れる人々は極めて限らている。これらの人々の受診を促す方策の検討が必要。
*1:定義:メタボ健診の「追加リスク」の定義と同様に、高血圧(収縮期130mmHg以上、または拡張期85mmHg以上)かつ、高脂質(中性脂肪150mg/dl以上、またはHDLコレステロール40mg/dl未満)をハイリスクとしています。また、メタボ健診の特定保健指導の効果と識別するために、特定保健指導を受ける可能性のある、腹囲85cm以上(女性の場合は90cm以上)またはBMIが25以上の人々は分析から除外しています。
*2:論文に掲載。翌年のFBSとHbA1cが、ぞれぞれ約9.7、0.31減少。いずれも1%有意
*3:https://doi.org/10.1210/jc.2019-00731
*4:より厳密には、血糖値の低下により、将来発生しうる糖尿病関連の医療費が減少する可能性がありますが、それらの便益は今回の計算には含まれていません。